国には権威というものがどうしても生ずるし、その国で儀式を執り行うということは死者を悼む以外に意図が存在するとみて間違いないだろう。
その問いに答えをくれたのはシンポジウム「国葬を考える」だった。
このシンポジウムの中で片山 杜秀氏[政治思想史研究者・音楽評論家]が「 国葬と将軍的欲望」として題して語られた内容が、私にとって、国葬をする意味について興味深く、なおかつ腑に落ちる内容だった。
国葬をする行為というのは権威の簒奪なのである。そして、安倍晋三氏は何度が天皇になり替わろうとしているという行動があるように思えていた。
その簒奪に期待していた人たちの落胆と反感が国葬反対を支えていると私は考える。
岸田総理という人は本当に信念などない人なのだなということがよくわかる話であったなと思う。
全文を読んで、一番引っかかったのは場所である。
子どもを産み育てる、という意思決定の危うさ。
幸い、私の周りでは、望んで子どもを産み幸せに育てている方々が多くて安心している。
私自身は、子どもが欲しいのかどうか、未だによくわからないし、産んだら終わりだという気持ちで十年を過ごしてきた。
私の母が妊娠し、仕事を辞めて、その再婚相手が私たち家族の中に入ってきたが、その再婚相手は、私と二人の弟を忌み嫌い、私と弟たちは実の父親に引き取られて、その後、母は子を産み、ガンで亡くなった。
この出来事から、妊娠出産ということがトラウマのようになっていた部分もあったと思う。
子どもを産むということに積極的にもなれず、かといって絶対に産まないという気持ちもない宙ぶらりんのままで過ごしている。
私のような稀有な経験をした人間など、理想の家族を押し付けようとしている政権にとっては、想定することなどないのだろう。
私はこの国の人間として、最初から扱われていない。
そして、家族のつながりが希薄であるということは、制度の対象外になるということも痛感し、結婚によって社会に助けられる経験をして、本当に悲しくなったものだった。
家族がいなければ、家族を作らなければ、生活がつらくなる社会なんて間違っていると思う。
女性が一人でも安心して暮らせる社会を、私は作っていきたいと思う。
私は日本共産党がここで果たす役割が、今こそ重要であると考える。
政権に対する疑心暗鬼に対して、人々の心に、何を訴えるのか。
ここで、市民の願いを正確にとらえられない政党であるなら、このまま衰退していくであろう。
そして、自民党やそのほかは、国葬反対を貫き通した日本共産党に対して、全力で攻撃を仕掛けてくるということも考えられる。
左翼という言葉、共産主義という言葉のイメージを利用して攻撃を仕掛けてくるだろう。
それを跳ね返すために必要なのは、ひとりひとりの信頼だと私は思う。
信頼をされるということは何なのか、それは途轍もない努力が必要になる。
活動を通して、家族がいるということで信頼されることを経験しているけれど、それだって変だと私は思う。
私は本来ならば、日本共産党にいる人間としてはふさわしい人間だとは思えない。
それでも、党が私を信頼し、信任してくれた事実に向き合っていきたいと思う。
だからこそ、日本共産党の一人としてこの社会とたたかっていく覚悟をした。
社会を変えていくためには、私の力だけでは何もできないことも痛感している。
草の根の運動というのは、それぞれのリアルの場所で人に出会い、話をして、信頼されること。
その広がりをどうにか掴んでいかなければならない。
そのために、私がたたかっていくための力をどうか貸していただきたい。
国葬が終わって、もうすぐ国会が始まる。
閣議決定だけで何もかもが決まっていく国になるのか、きちんと議論し、いろんな角度から議題を検証し、実施できる国になるのか。
この国をどんな国にしたいのか、一人一人が改めて考えていくことが求められていると私は思う。